行政書士の就職先

ハローワークに車の列。まるで年末のガソリンスタンドのようです。

ハローワークの中は月末の銀行くらい混んでいます。

まさに、平日の昼間の一大フェスです。会社に勤めている時はこんな騒ぎが毎日行われているとは想像もしない景色でした。

今日から私は、この世界の住人になるのです。

就職活動

プログラマーを退職し、まだ行政書士という資格に出会う前の話です。

10社ほど履歴書を送りましたが、すべて書類選考で落選。私には、面接官の顔を拝見する権利もないのです。

さて、私は事務全般ができます。パソコンも得意で、officeソフトはaccessだって使えます。

記憶をたどれば、保育や介護の現場で人に関わる仕事もしてきましたし、飛び込み営業からプログラミングまでやってきました。この豊富な経験と能力の、どこに落ち度があるのでしょう。

作戦を変えて、ハローワークの相談コーナーで指導を受けてみることにしました。

すると、そこで思わぬアドバイスを受けるのです。「あなたは経験が豊富過ぎる」と。

まさか、経験が多いことが仇になろうとは。

それに、「じゃあ、減らします」とは言えないではないか。正真正銘、くそアドバイスだ。

そう思った矢先、相談員が驚きの提案をしてきました。

「まずは職歴を減らしてみましょう」と。

マジか。まさか、その引き出しから、タイムマシーンでも登場するでしょうか。

さて、その相談員曰く、面接官が目にできる私の職歴は、前々職までだそうです。

それ以前の公の記録は、よほどのことがない限り第三者は照会することができない仕組みになっているらしいのです。

つまり、前々職より前の職歴は、すべてを正直に書かなくてもバレはしないというのがその相談員のアドバイスでした。

くそアドバイスだと罵った3分前。まずは、頭の中でそれに詫びることから始めましょうか。

さてさて、経歴を詐称するのか。悪魔のささやきです。

子どもの頃の夢

さて、私の経歴は、遡ると、前職がプログラマーで、その前は介護の会社での2度の倒産です。これはこれまでのページでも触れてきました。

ただ、実は、その前にも就職歴があります。話は脱線しますが、私のルーツをたどってみたいと思います。

私は、西南学院大学の児童教育学科を卒業しました。教育を志した理由。それはプロフィールのページでも書いた私の独立気質にも通ずるところがあります。

そう、私は人を引っ張っていくことが好きなのです。

小学校1、2年の時の担任の古賀先生はギターを弾いて、いつもみんなで歌を歌いました。クラスはいつも朗らかでした。

私は小・中・高校で、クラスで一番小さい方でした。『前にならえ』をする時、一人だけ違うあのポーズをする役職に、私は身体測定のたびに任命されました。

体が小さいといじめに敏感になるものです。弱いものは標的になりやすいからです。

私は人生において、幸い、いじめる側にもいじめられる側にも属せず生きてこられました。ただ、世の中にいじめというものがあることは知っていました。いや、周りにはいつもいじめがありました。普通のスクールライフの光景です。

ただ、そんな私の目から見ても、古賀先生のクラスにはいじめはありませんでした。私は古賀先生のような平和な世界を作れる人間になろうと教師に憧れました。

学生時代

教育学科で学んで知ったことがあります。教育は、年齢が低くなるほど高度だということです。

一般に、小学校の先生より大学の教授の方が専門的で立派なイメージがあります。おそらく、給与の額もそのイメージ通りだと思われます。

ただ、それに反比例するように、大学生を教育することより小学生を教育する方が難しいのです。小学生を幼児や乳児に置き換えていくと、よりその意味はわかりやすいでしょう。

大学教授が受け持ちの学生について、誰が30分後に命を落としている恐怖を抱くでしょうか。乳児や幼児は常に命の危険と隣り合わせです。

つまり、より幼い子への教育の方が難しいということは明白です。

『三つ子の魂百まで』と言われるように、幼い子への教育というのは、知識だけでなくその人格にまで影響を及ぼします。

ちなみに、私が信奉した『シュタイナー』という保育理念には「7歳までは夢の中」という言葉があります。

難しい話はさておき、また7歳という細かい数字にとらわれない話をすれば、私は、子どもには特別な能力を持った時間があると思います。

それは、母国語を吸収したり、身長が伸びたりと、大人には失われた力を持った時間です。

『トトロが見える時期』とでも言いましょうか。

例えば、幼稚園の頃の担任というのは、中学や高校の担任と異なり、具体的にどんなアドバイスを受けたとかどんな指導を受けたということはほとんど記憶に残っていないものです。

ただ、それ以上に、人の心を満たすものは、記憶にはない幼少期の『空気のかたまり』だと思います。

まさに、トトロと出会ったような、夢のような曖昧な記憶のかたまりです。

私は、子どもたちとたくさんの楽しい時間を過ごし、そして、その記憶からそっと存在を消してなお、子どもたちの心にあり続けるのような、まさにトトロになることを目指して幼児教育の道に入りました。

さて、私は幼稚園に教育実習に行きました。そこで出会った武原先生という主任の先生からスカウトを受け、卒業後、その幼稚園に就職することになりました。

武原先生は朗らかで、絵にかいたような幼稚園教諭でした。また、それだけでなく、人から慕われるカリスマのような人であり、たくさんの児童やその保護者から愛されていました。

私と共に採用された同期の教師は、幼い頃、武原先生の教え子として幼稚園生活を送っており、武原先生に憧れ、今まさに教師としてこの園に戻ってきたというストーリーを持っていました。

新卒の私にとって、武原先生は社会で最初の上司でした。もう一度人生をやり直すとして、これ以上恵まれた状況はないのではないかとさえ思います。

私の人生は、幼稚園を辞めいずれ行政書士の道へ進むのですが、行政書士となって13年目を迎える今でも、武原先生とは交流を続けさせてもらっています。

幼稚園教諭になる

これまでのページで、私はプログラマーとしてブラック企業に勤めてきたと書きました。

そこでの睡眠時間が3時間なら、幼稚園教諭時代の私の睡眠は2時間でした。

教師は忙しい。昼休みもありません。

子どもが降園した後は、明日の準備と次のイベントの準備に追われます。園外保育の予定があれば、下見へ行き、危険箇所を洗い出さなければなりません。

そんなことよりまず、今終わったばかりの一日の記録を付けなければなりません。これがないと、1年間の通知表も月末の園だよりも、妄想で埋めるしかなくなってしまいます。

保護者からの連絡ノートにも返信しなくてはいけません。

「うちの子、先生のことが大好きみたいです」みたいなお気楽なものには朗らかに、薬を持参した子や昼食にアレルギー食品が出た子には整然とした文章を使い分けます。

さて、今日は午後の記録を見ると、私はアレルギー表とおりにきちんと給食を配膳しています。

2時間睡眠での勤務。忙し過ぎてとうに記憶はありませんが、昼間の私はちゃんと働いていたようです。とにかく褒めてあげたい。

その努力の代償で、私の顔には吹き出物が溢れ、切る暇のない髪は人生初のロン毛になりました。

まぶたは赤く腫れ、明るい方を見るたびに涙が出るように生態が変化した。そろそろ、新種の図鑑に載ってしまうかもしれません。

これを耐えられた理由は何故でしょう。答えはただ一つ。『若さ』です。若いって素晴らしい。

なお、この重労働には幼稚園側の言い分もありました。「あなた達には夏休みを与えているでしょう」だ。

確かに、幼稚園には1か月以上の夏休みがありました。その間、出勤の必要はほとんどありません。一般の会社ではあり得ない、バカンスです。

ただ、夏休みは、持ち帰りの仕事で溢れています。ここで2学期、3学期の準備をしていないと、9月からの睡眠時間は0どころか、マイナス値で表さなければならなくなります。1日を24時間から26時間にでも延ばしたいですが、時空を歪める理論をお持ちのアインシュタインはもうこの世を去っております。

また、人の体は『寝貯め』ということはできないらしいです。ホンマでっかTVでやっていたので絶対間違いありません。

8月31日までの睡眠貯金は9月1日に尽きるのです。

思えば、4月に入社し、5月の連休にはもう気持ちが切れていました。14時に子どもたちが降園すると、何の感情も伴わずに涙が流れるようになっていました。

それでも1学期は気力で乗り切りました。

2学期以降は何の原動力で乗り切れたのか、自分でもわかりません。これがドラクエなら完全なバグです。HPもMPもゼロの状態で闘い続けました。

言えるとすれば、『受け持った子どもたちを放棄してはいけないという責任だけで、年度が終わるまでがんばった』ということです。

また、武原先生がいつも助け舟を出してくれることが支えだったと思います。

これが、私にとっての初めての社会人生活でした。

1年間はがむしゃらに耐えることができました。

ただ、もし、『社会で働くということ』がこれならば、私は働き続ける能力がないという実感を持ちました。これが私の社会人1年目です。

充電期間に入る

1年間の壮絶な幼稚園教諭生活が終わると、私は抜け殻になりました。

これまで教育しか勉強してきませんでしたが、教師をするという覚悟は、すでにへし折れているのです。

それに、教師をやるにしても、新年度が始まっている4月の段階で、正職求人などもうありません。

気が付くと夏になっていました。

「もう働きたくない」と体が動かないのですが、目減りする貯金残高が刻々と現実を突きつけてきます。

そんな時、教育系の求人フェアが開催されることを知り、行ってみることにしました。時節柄、非正規の求人ばかりです。

ただ、福祉・教育系の施設が一堂に会するその会場では、私が今まで目にして来なかった種類の求人と出会うことができました。障がい児保育や障がい者施設などのスタッフ募集です。

私は重症心身障害者の小規模作業所で働くことにしました。

さて、重症心身障害とは、コミュニケーションが全く取れなかったり、口にチューブを着けているなどの状態です。最初の一歩を踏み込むには、なかなかハードルが高い世界です。

私は大学が教育学科だったので、重症心身障害の施設を見学したこともありました。午前中に見学した後、多くの学生が昼食が喉を通りませんでした。そんなことを思い出します。

これまで障がい者という世界に触れてこなかった人にとっては、異次元の空間がそこにはあります。

私もそれまで身近に障がい者がいなかったので、初めは、戸惑いがありました。車いすを押すのも初めてでした。

ただ、そこでは、とにかく時がゆっくり過ぎていました。

また、大学で行かされる見学と自分の足で通う職場では、『修学旅行で行かされる京都と、社会人になって自分で行く京都』くらい景色が違いました。

障がい者、健常者という壁は世の中にはなく、皆が同じ日常を生きていることを知りました。

時給700円の非正規採用でしたが、私が心のリハビリをするにはお釣りがくるくらいの環境でした。そこで学ぶことは多く、空っぽの気力が充電されていくのを実感しました。

こうして、私の人生は、これまでのページで紹介してきたとおり、次に、介護業界への就職へとつながっていきます。

つまり、私の職歴は、幼稚園教諭→障がい者施設→介護→介護→プログラマーを経ての行政書士開業です。

行政書士の求人

話がかなり脱線してしまいましたが、行政書士の求人の話に戻りましょう。

「職歴を減らしてみましょう」。ハローワークでまさかの職歴詐称の指南を受けました。

ただ、背に腹は代えられません。私はすぐに龍の生き血をロウソクで炙って、悪魔の儀式に手を染めることにしました。

私は、自分の経歴を、卒業後すぐに介護業界に入ったことにしました。履歴書から幼稚園教諭と障がい者施設の過去が消えました。

その甲斐あってか、書類選考が通るようになりました。

世の中はわからないものです。

『教育や福祉の世界を知っている』。

この経験がない方がよいなんてことがあるのでしょうか。『教育や福祉の世界の経験』。私の息子にこれを経験させられるのなら、私なら、お金を積んででも経験させたいものです。

さて、面接には漕ぎつけるようになりましたが、何社受けても受かることはありませんでした。悪魔の儀式のレベルだけが黒帯になりました。今日は、魔人のすね毛を煎じて飲みました。

ただ、ちょうどこの頃、行政書士の資格と出会いました。

行政書士の勉強を始めることになり、ハローワークにしばしの別れを告げたのです。

皆さまには、『悪魔の儀式は未遂で終わった』と大目に見ていただけると幸いでございます。

さて、夏が過ぎ、年が明け、私は行政書士試験に合格しました。

そこで次に考えたことは、『行政書士として就職する』ということでした。

私はサラリーマンしか経験がありません。そして、両親もまた同じです。また、そうやって家庭を守り抜いてきた自負もあってのことでしょう、我が家では、サラリーマンこそが成功への堅実な道だと聞かされて育ちました。

いきなり自営業を選択できる土壌はありませんでした。

さて、かつてハローワークに通っていたおかげで、行政書士の求人が皆無ではないことは知っていました。2週間に1度くらいのペースですが行政書士事務所の募集を見かけたものです。まずはその道に賭けることにしました。

履歴書から過去を消すことはもう何の躊躇もありませんでした。私はもう一人前の悪魔です。今日は、ゴブリンの鼻くそをプレーンでいただきました。

これまでと履歴書が違うのは、資格欄に『行政書士試験合格』と書けることです。

ですが、その甲斐もなく、行政書士事務所の求人では、書類選考さえ何度も落ちました。ものすごい倍率のため、求人が出た当日に募集が打ち切られることもありました。事務系の仕事は激戦です。

ここで、少し冷静になって、その待遇面を振り返りましょう。

そこで気づいたのですが、ほどんどの募集が月給15万円以下の事務員募集だ。一人前の男が家庭を支えるために働く仕事ではありません。

とはいえ、私にはこれしか道がない。両親も、「開業するくらいなら月給15万円でも定職に就いた方がいいのではないか」とアドバイスしています。我が家は熱いサラリーマン信者なのです。

そんな時、ある行政書士事務所の求人で、面接のお呼びがかかりました。月給13万円の事務員募集です。

これを射止めてどう人生が大逆転するかはわかりませんが、私にはがんばるしかありません。

行政書士事務所の面接

面接予定の事務所をネット検索してみました。福岡県行政書士会の中でもしかるべき立場を務めていらっしゃる先生の事務所らしい。

そんな立派な先生の事務所です。ぞんざいな扱いを受けるはずがないと思って行ったら、まさかの、ぞんざいな扱いを受けた。

まず、「今日はちょっと時間がないから、2人まとめてでいい?」という言葉から始まりました。

美容室で最後に聞かれる「こんな感じでよろしかったでしょうか」と同じく、この質問にNOと言える余地はありません。

そして、私は、50代くらいの男性と2人で面接を受けることになりました。それにしても、何故わざわざ、やっつけ仕事をアピールしてくるのでしょうか。それならいっそ、もともと2人ずつ面接をしている体で進めてくれればいいではありませんか。

そして、次に言われたのが、「あなた行政書士資格を持っているみたいだけど、うちは普通の事務員がほしいんだよね」でした。

いや、私はそれを承知で月給13万円の事務員募集に応募しています。「行政書士としていっぱしに雇ってください」なんてこちらから一言も言っていません。

そこから、さらにエスカレートする。「うちは今、事務員は女性ばかりだから、男性で入るんだったら、自分の稼ぎくらいは営業して取ってきてもらわないと困るよ」。

もはや意味不明です。理由と結果の因果関係についていけません。

そして、次の言葉が極め付きでした。

「自己破産とか、弁護士法に抵触するようなこともやってもらうよ」だ。

なんと、倫理のかけらもないじゃないですか。いや、もしかして私は会場を間違えて詐欺グループの面接のドアをノックしまったのかもしれません。

その言葉に難色を示していると、トドメの言葉が飛んできました。「あなたみたいな人より、社会で場数を踏んできた隣の方がよっぽど使えるね」、「あなたみたいなまじめなタイプは、行政書士になってもうまくいくはずがない」でした。

行政書士会でしかるべき立場にある先生がこんなレベルかと思うと、悲しさが溢れてきました。私が苦労して目指してきた道の先には光がないのかもしれません。

求職者は皆、肩身が狭い。収入がなく、藁をもすがる思いです。

私は、介護センターの雇われ店長をやっていた時、採用の仕事も任せてもらっていました。

面接にくるヘルパーさんには、常識知らずの若者や、話に要領を得ないおばあさん、それこそ、片言の外国人もいました。

けれども、私はそこで上司から、どんな人にも丁寧に対応することを教わりました。会社の名前を背負って行う行動は、すべて会社の信用につながると。

士業は閉鎖的な世界です。そこで「先生」なんて呼ばれていれば、勘違いしてくる部分もあるのでしょうか。求職者の苦しさに寄り添えないこの人は、少なくとも私にとっては先生ではありませんでした。

人の痛みがわかならいということほど、世間知らずなことはないと私は思います。

ただ、この先生ははなからから私を採用するつもりがなかったのでしょう。弁護士法に抵触するようなことをやらせるなんて、私を落とすためにあえてついた方便なのだと信じたいものです。

はたまた、世に言う『圧迫面接』に、私が対応できなかったのかもしれません。せっかく面接の機会を与えてくださった方を悪く言うつもりはありません。すべて、私の落ち度だと思うことにしましょう。

ただ、その帰り道、私は、自分で行政書士を開業することを決めました。

職域を超える求人

さて、弁護士法の話が出てきましたが、誰かのもとで働く場合に気を付けたい、職域の話があります。

例えば、上司から、行政書士ではできない分野の仕事を命令されたらという話です。

ここで、私の経験を紹介し、職域と就活についてお話したいと思います。

それは、開業3年目くらい。ちょうど行政書士として軌道に乗り始めてきた頃の話です。

熊本県の税理士さんが、はじめましてで私に電話をかけてきました。業務提携の話でした。

現在、私はそういった話はすべてお断りさせていただいていますが、当時はまだ仕事が少なく、彼の話に興味がわきました。

彼は、開業間もないが、これまで税理士として税理士事務所に長年勤務してきたというベテランでした。年齢も、私より一回り上です。

さて、彼はこれからコンビニ専門の税理士として展開していきたいと展望を語りました。全国、犬も歩けばコンビニに当たるのに、コンビニ経営に明るい税理士は少ないという話でした。

そして、彼が、税理士として顧問契約を取ってく上で考えた『飴』が、免税という話でした。

事業者は、開業から2年間は消費税を納めなくてよいというルールがあります。この2年が4年になるとしたらどうでしょうか。そして、これを可能にする方法が法人成りです。

法人成りとは個人事業から法人に組織変更することであり、個人事業者なら、株式会社の設立は誰でもできます。

これを行うことで、個人事業開業からの2年と、法人設立からの2年の計4年間が免税の対象となります。全国には個人経営のコンビニがたくさんありますので、個人経緯のコンビニに話を持ち込めばそれに乗る者も多いだろうというのがその税理士さんの考えでした。

ただ、これを行うには、まず大きなネックがあります。それが、酒類販売業免許です。コンビニはこの免許によってお酒を販売できています。

個人事業から法人へ組織変更をする場合、コンビニの酒類販売業免許は一度失効し、法人名義での再取得となります。その手続き代行として、行政書士である私に声をかけてきたのです。

私と彼は、協力して、個人事業のコンビニを法人化するプロジェクトをスタートすることにしました。

ここで、大きな問題がありました。それは、株式会社を設立する『法人化』です。

当然、私も彼も、職域上、法人設立ができません。行政書士が法人設立業務を行うこともありますが、その場合できるのは定款などの作成までです。行政書士が登記申請を代行するのは司法書士法違反になります。

ところが、彼は、その登記申請まで私に行うように求めてきました。そして、その時、このプロジェクトは決裂しました。

私は適正に司法書士を入れるよう提案しましたが、コンビニ事業者にその分の報酬負担を強いるのは、彼にとっては、練り上げた『飴』のうまみを大きく削ぐものでした。

確かに、この登記申請の代行は賛否が別れることもあります。極端な話、『報酬をもらわなければ行政書士がやってもいいのではないか論』もあります。

もちろん、私は無報酬であっても登記申請を行うことはありませんが、ただ、それより何より、私は、彼の言いなり働かされるのが嫌でした。

そういうことが嫌で、独立開業したのです。

さて、これと同じ問題が、行政書士での就職でも起こってくると、私は思いました。

私がハローワークで見かけた求人には、少ないながら、行政書士資格者としての求人もありました。

ただ、そこで見かけるものにこれと同じ類のものがありました。『法人設立のため行政書士求む』の税理士事務所などです。

あなたは上司から「職域外のことをやれ」と言われたら、断ることができるでしょうか。おそらく、雇用関係の構造上、それを毅然と断われるのは余程ハートの強い人か、ドラマの中の実直な高倉健くらいでしょう。

これを考えると、職域という曖昧な世界で生きる士業にとって、資格者としてよい就職先に入るためには、人格者のもとに就職するしかないと思います。

ただ、悪いが、その可能性がどれだけあるでしょうか。事実、私は面接で弁護士法に抵触する業務を示唆されました。

私は、行政書士での就職への希望を捨てました。やはり、行政書士は独立開業型の資格だと思います。

さて、次のページでは、いよいよ行政書士の開業後の現実についてお話したいと思います。