20代の頃、勤めている会社が潰れるという出来事を経験しました。
1度なら「不運だったな」で済ますところが、それが、なんと2度!
24歳、27歳という、わずか3年間で2度!
そんなビッグイベントが、オリンピックより短いスパンでやってきたのです。
こうした波乱の末、流れついたのが私の行政書士人生です。
20代で2度の倒産
さて、2度目に潰れた会社は、クリスタルグループという、当時、日本で10本の指に入るメガ企業でした。
そんな会社が消えるとはまさに青天の霹靂。
安泰を信じて、信じて、信じ抜いていたのだから、それは『食べログ4.5の店が、クソまずい』くらいあり得ないことでした。
さて、そんなクリスタルグループは、メガ企業でありながら非上場という珍しい形態でした。非上場というのは経営の意思決定がトップの一存であるということです。
この状況こそが、悲劇の始まりでした。
ある時、トップが「この会社売っちゃいま~す」という暴挙に出たのです。
こんな威勢のいい話、今どき、『バナナのたたき売り』で有名な北九州でもなかなか聞けたものじゃありません。
そして、これを買い取ったのが、グッドウィルグループという当時伸び盛りのベンチャー企業でした。『小が大を食う吸収合併』と新聞紙面を騒がせました。
とはいえ、「経営者が変わったとて、私が職を失う訳ではない…」と安堵したのもつかの間、そのベンチャー企業は空前絶後の不祥事を起こし潰れることになるのです。
グッドウィルグループが経営する業界No1のコムスンという介護事業所が、介護業界の歴史に残るような不正・破綻をかましたのです。
我ら従業員はちりじりになりました。
IT企業への転職
2度の倒産を経験した私は、思い切った転職をしました。
「未経験がなんだ!」
そう、時代はIT。私はプログラマーになるのだ!
ハローワークで求人を探し、入社にこぎつけました。
ただ、安心はできません。入社といってもまだ試用期間。
何せ、採用できるだけ採用しておいて試用期間中に1名に絞るということが、この会社の風習なのですから。
とはいえ、そんな社長のプレイに歯向かってはいられません。入社したての一人の従業員が異を唱えるのは、アンパンマンがフリーザに立ち向かうぐらい困難というものです。
そう、私は、このサバイバルを勝ち抜くしかありません。いや、勝ち抜きさえすればいいのだ。ライバルは4人!
いよいよ初出社。そこで、私は、さらに社長の非道さを知ることになります。
実は、社長の頭の中ではすでに採用ターゲットは決まっているのでした。
そう、これは『一番若い23歳の彼』を気持ちよく勝たせたいという出来レースです。
我々はただ、そのかませ犬なのでした。
さて、対する私は、未経験の27歳。
ご存じないかもしれませんが、27歳というのは、IT転職としては完全に出遅れに当たります。5名の中で最年長の私は、オッズ500倍の大穴でございます。
この日から、社長の『我々を虐げることで、彼を持ちあげる』という攻撃が始まりました。
1名…、また1名と脱落し、2週間が過ぎる頃には、私と23歳の彼との一騎打ちとなりました。
でも、私は屈しない。入社日までのモラトリアムを、私は遊んで過ごしてきてはいません。
独学でプログラムの本を1冊仕上げてきているのです。
自分で言うのも何ですが、私は真面目なのだ!負けてなるものか!
そして、次の課題で私が彼を上回った時、彼は潔く会社を去り、ここで私の本採用が決まりました。
ただ、今思えば、『わが社、ブラックでございます』と書かれた看板になぜ気がつかなかったのでしょう。
試用期間で見切りをつけて去った彼らこそ、真の勝者だったことは言うまでもありません。
入社からもうすぐ3年
家族が寝静まった夜中の2時。
今日もこの時間に帰宅。
テーブルに、母が託した夕飯。
ありがたく口にはしてみますが、さすがに完食する元気はありません。
「今日も、今日の日付のうちには帰れない…」そう決まった21時。あの時食べたカロリーメイトで、本日の食欲は使い切っていました。
母への感謝と罪悪感。夕食を軽くつまみ、風呂に入って就寝。
こんな時でもわざわざ清潔を保つのは、社会で生きる最低限のあがきなのかもしれません。
そこから落ちるように眠り、這うように目覚め、また朝6時には家を出ます。たった3時間程度の睡眠ですが、生命崩壊の土俵際には何とかギリギリ残っているようでした。
ところで、それからまた時が過ぎ、今日は会社のデスクで目を覚ましました。
つきっぱなしのパソコンがにじんで見えます。目がピントの合わせ方を思い出すまでに10分を要します。
ここであることに気づきます。
そうだ、この出来事は『会社で目を覚ました』という話ではないのです。
『徹夜中に眠ってしまっていた』という話なのでした。
ああ、もうすぐ9時。他のスタッフが出社してきます。ウトウトもしていられません。
私は、何とか「新しい朝が来た」という顔に切り替えます。
そんな矢先、思い出したことがあります。
そうだ、昨日の朝もそうだった。
ああ、2日間も家に帰っていないのか。
そう思った瞬間、自分の体が臭う気がするし、替えていない靴下がムズムズしてきます。
週末はどうせ休日出勤。今週もデートはキャンセルか。
彼女との別れも近いだろうと悟ります。
同世代の友人は軒並み結婚していきますが、私には未来が見えません。
それどころか、私は、人としてギリギリのところにいるのだと思います。
数か月前まで土俵際だと思っていた足元は、今はもう、マッターホルンの断崖です。
病気ではないといことを健康と呼ぶのだとしたら、早急に広辞苑を書き換えなければなりません。
同僚の中には、鬱を患って病院へ行く者も後を絶たちません。もしかすると、私が知らない間に、鬱は伝染病になってしまったのかもしれません。
さて、では、こんな状況の中、私は昼休みに何をしていたかというと、何と、勉強だ。
秋には、晴れてプログラミングの資格試験に合格しました。
何度も言おう、私は、とにかく真面目なのだ。
会社から表彰され、月給が5,000円上がりました。
退社。くすぶる独立心
激務の中での資格試験の合格。
この出来事が私の中の何かを変えました。
もともと体力的にも限界が来ていたことももちろんですが、私は自分自身ががんばれる人間だということを再確認しました。退社を決意します。
それと同時に、会社での自分のキャラクターというものも自覚するようになりました。
同僚の中には、遅刻しても笑って許されたり、休日出勤を平然とスルーできたり、社長と飲みに行って給料が上がった者もいました。
社会は平等とは限らず、がんばった者が必ずしも正義を勝ち取れる訳ではないのだと、そんな風に冷静に周りを見るようになりました。
そして、もう一つ気づいたことがあります。
それは、私は不器用なのだということです。これには私自身、驚くものがありました。
なぜなら、これまで私は、自分を器用だと思って生きてきたからです。
これまで、たいていのことは努力をすれば道が開けてきました。何ごとも要領よく、最小の努力で合格点に到達することは得意でした。
ただ、私は、努力をする・がんばるという以外、ズルをしたり、ズルが許されたりという器用さを持ち合わせていないことに今さらながら気づいたのです。
簡単に言うと、組織で生きる中で、何らかの不適合を持ち合わせていることに、30歳を前にして気づいたのです。
そう、それでも私は、がんばることしかできません。
そして、今までも心のどこかで、そんな自分に気づいていたのかもしれません。
「ズルはしない。がんばることで正義を証明してみせてやる」という思いはずっと持っていたのだと思います。
私は退社を決意しました。私は、私の努力を私自身に向け、私のやり方で正義を証明したいと思いました。
プロフィールのページで私にはもともと独立気質があったと書きましたが、おそらくこういうことを昔から心に抱えていたのだと思います。
お前はミムラだ
座右の銘というにはだいぶ恥ずかしいですが、私には好きな言葉があります。
それは、キン肉マンのテーマソングの中の「ああ、心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ」という歌詞です。
スーパーヒーローというものは、勝利が目的なのではなく、闘う姿こそが正義なのだと思います。
どんな手段を使ってでも勝つということではなく、闘い方にこそ美があると思います。
そして、なおかつ勝つ!それがスーパーヒーローです。
それと、他人から言われた言葉で今でも心に残っている言葉があります。
それは、「お前は、ミムラだ」です。
ミムラとは、女優のミムラさん(現:美村里江さんに改名)のことです。
この言葉は、24歳の頃、私が1度目の倒産を経験した会社の上司に言われた言葉です。
その上司というのが、論破力や行動力で乗り切るタイプの人でした。わかりやすく言うとホリエモンさんのような、経営にマッチョな剛腕タイプです。
外様で会社に入って来ては、新たな介護部を立ち上げ自ら部長になり、全国10店舗近くの介護事業所を立ち上げては、その建築負債で会社本体もろとも倒産に導くという、大騒ぎの人物でした。
私のような、コツコツと努力をするタイプとは正反対かもしれません。
私はポジション上、部長と過ごす時間が多く、部長は、私をよく可愛がってくれました。
決して『なりたい』というタイプではありませんでしたが、世間知らずで臆病だった私に、社会で勝ち抜くための剛腕を示してくれた人だったと思います。
その部長が、「オレは石橋凌だが、お前はミムラだ。がんばれ」という言葉をかけてくれました。
ミムラさんというのは、当時、月9ドラマの主演にオーディションで抜擢されて彗星のごとく世の中に現れた女優さんでした。
部長は、そのビギナーというドラマに例えて「オレは上司の嫌われ役の石橋凌だが、お前は主人公だ」という意味で、その言葉をかけてくれていました。
その言葉で驚いたのは、それまで、人は誰しも自分自身を主人公だと思って生きていると思っていたからです。
自分自身を脇役だと思いながら大立ち回りする生き方もあるのだと驚いたのと同時に、自分自身を主人公だと思って生きていける自分のまっすぐなキャラクターをもっと大切にしたいと思いました。
そして、その日以降、私は自分自身をミムラ(主人公)だと思って生きています。
独立へ向かう
次の転職が、就職ではなく、独立になるかもしれないということは薄々感じていたところがあります。
とはいえ、何をするかなんて何も考えていませんでした。希望と不安が広がっていました。
真っさらな白紙の中、これから自分が何を目指そうかと考えた時、こんな言葉を耳にしました。
「答えは、自分が歩いてきた道にある。」
そこでまず思い出したのが、倒産した2つの会社です。
さて、これら2つの会社はどちらも介護の会社でした。
ただ、介護といっても、私の職種は、身体介護のようないわゆる『ケア』だけをする立場ではありませんでした。
時は2004年~2007年くらいの話です。介護保険制度が2000年にスタートし、世の中に、介護業界というものが生まれ始めた頃です。
そこで、私は、『介護事業の立ち上げ・運営』という業務を任され、勤務していました。
では、倒産した2つの会社の思い出話を始めましょう。
初めての許認可業務
入社初日の朝、部長の口から謎の言葉が発せられました。
「うちは介護の会社だが、介護の許可は持っていない。」
私がポカンとしていると、次の瞬間、さらに驚く言葉が私に向けられました。
「その許可を取るのはお前だ。さあ、今から県庁に電話しろ!」
その言葉に、私の股間が縮みあがります。
この収縮率は、私の股間史上、第2位だ。
ちなみに1位は、高校時代です。木刀を持った数学教師の前で、学校に持ってきてはいけないポケベルがポケットの中でバイブし始めた時に記録した収縮率を越える出来事は今だ起きていません。
さて、私は、介護の仕事、いわゆる『ケア』をするつもりで入社していました。
当時の私は、当然、行政書士でもなければ、許認可の『きょ』の字も知らない、児童教育学科卒の若造です。
介護事業に許可が必要なのかどうかもしらなければ、県庁で許可が取れるのかどうかも知りませんでした。
一般人が県庁に電話をかけていいのかどうかも知らないし、もっと言えば、仕事で電話をすることが怖いという典型的な現代っ子でした。家族や友人以外に電話をかけることは、人生でほとんど経験がありませんでした。
受話器を握れずにいる私に、部長がさらに詰めます。
「ここの建物は新築だ。それに、オープニングスタッフを6名採用している。予定が伸びるごとに1月、2月分と損失が出るぞ。開業は4月1日だ。やれ。」
よかった、ちょっとしかチビらなかった(笑)。もし、さっきトイレに行っていなかったら、本日付で依願退職の量であったことでしょう。
そして、4月1日。福岡県糟屋郡宇美町にデイサービスが無事に開業を迎えました。これが私の初めての許認可申請の経験です。
私の初めての許認可申請は、行政書士としてではなく、介護会社の従業員として介護の指定申請(許可申請)を行ったことが始まりです。
さて、この会社は、本業は不動産管理の会社でした。私は、介護に限らず、消防法など不動産管理に関する申請業務も経験させてもらいました。
いつもデカイことを経験させてくれる部長は、このままいけば、憧れに変わったのかもしれません。
しかし、福岡と大阪でさらに2件の住宅型有料老人ホームを展開しようとしたその矢先の急転直下。会社が潰れました。
急いで拡大し過ぎた介護部門の負債が迫り、本業の不動産管理部門もろとも倒産しました。
ただ、こういう話は、業界では珍しい話ではありませんでした。
当時、介護といえば、まだ始まったばかりの大荒れの業界でした。「高齢化社会だから介護は儲かる」などというメッキが剥がれ始めた頃で、乱立の裏で、潰れる会社も目立ってきた時期でした。
なので、2つ目に破滅を経験した会社も、似たような末路でした。
私は、介護部門の博多センター長として採用され、俗に言う『雇われ店長』でしたが、許認可申請、売上管理・営業、人事・採用など、貴重な経験をさせてもらいました。
そのさなか、経営母体であるクリスタルグループがグッドウィルグループに買収されることになりました。
世間では『小が大を食う合併』とも揶揄されましたが、介護部門だけみれば、この『小』であるベンチャー企業は業界第1位の『コムスン』を有する、未来明るい企業でした。
そして、グッドウィルグループはそのコムスンの不正により潰れていくのですが、『業界第1位の企業が日本から姿を消す』ということが起こるくらい、当時の介護業界は波乱に満ちていたのです。
さて、私の人生はここから、プログラマーへの転身、さらにそのプログラマーの退職、そして独立へと移っていくことになります。
そして、独立にあたり、行政書士を選択した理由に、この時介護業界で経験した許認可申請への未練がありました。
『新しいビジネスが動き出す』感覚。その瞬間に立ち会うワクワクする気持ち。
もう一度、そういう仕事がしてみたいと考えた時、それを専門に行う仕事があることを知りました。それが行政書士です。
そして、私は行政書士を目指し、歩み始めました。